ここに幾つかの印影がある。刻まれている文字は「森村銀行」。79年前まで存在していた銀行名だ。
印影写真
明治30年6月、森村商事株式会社の前身である「森村組」の多角経営の一環として、最初に営まれたのが合名会社森村銀行(本店所在地は日本橋区1-15)である。
6代目森村市左衛門は横浜正金銀行、日本銀行の設立時から役員として関与していたので、銀行業務には深い関心を持っていた。発案者は弟の豊だったという。「外国貿易とは波のある事業であるから、利潤がある時に貯蓄運用を図らねばならない、そのためには銀行業を営むのも一策」と考えたようだ。
当時、国産業界の異常な発展により銀行新設の気運が高まっていたのである。
合名会社森村銀行は堅実経営を営業方針として日露戦争、第一次世界大戦と経済活況の波に乗り、大正9年には資本金を50万円から100万円に増資した。
同行について『三菱銀行史』には「小規模乍ら堅実な経営によって東都銀行界に重きをなしていた」と記されている。
大正11年には戦後の反動不況、大正12年には関東大震災に襲われる。経営陣は銀行経営の将来について考慮し、従来より関係の深い三菱銀行に協力を仰ぐこととなった。
大正13年7月、資本金400万円の株式会社森村銀行を設立(本店所在地は日本橋区本石町2-3)、三菱銀行が株主となった。
同年10月、合名会社森村銀行をこれに合併し、資本金を500万円とした。頭取は7代目市左衛門であったが、専務取締役や相談役は三菱銀行から派遣され、三菱の子銀行としての営業が開始される。
翌14年株式会社品川銀行を合併して品川・大森両支店を加え、取引の進展を図った。
それまでの本店が震災で類焼したため丸ビル内に移転していたが、大正15年7月、日本橋区通1丁目3番地に本店を森村銀行ビルとして新築・移転となる。
昭和2年、日本の産業界は未曾有の混乱に直面した。震災手形の処理をめぐる金融不安に端を発し、全国的な信用恐慌となった。その原因は銀行の経営悪化にあったとされ、国の銀行合同政策が積極化し、預金は大銀行に集中する傾向が顕著であった。
この間、森村銀行は築地出張所を設立し繁盛したようだが、新銀行法や銀行検査官方が施行されるなど、時代の流れには逆らうことができなかった。
順調に話は進み、昭和4年5月、三菱銀行に完全に営業を譲渡した。合併に際し7代目市左衛門は三菱銀行の監査役に就任した。
そこで森村銀行の27年間の歴史は終わる。短くはあるが同行の歴史を知ることにより、私たちは明治末期から昭和初期の日本経済の流れの一端を垣間見ることが出来る。