森村商事株式会社

歴史コラム:ゆかりの地② 湯河原「万葉公園」

ゆかりの地② 湯河原「万葉公園」

「万葉公園」

神奈川県の湯河原、温泉街の中心地に「万葉公園」という緑地公園がある。
千歳川沿いにあるその公園は過去に「大倉公園」と呼ばれたこともあった。その名は森村グループの歴史を語るに欠かせない、大倉孫兵衛・和親に由来する。

日本の陶器改良に献身し、諸外国の工場を見学して帰国した孫兵衛は長旅の疲れから病に倒れる。(明治三十七年頃)
脳溢血を患って仕事を休むことになった孫兵衛は、湯河原の別荘で静養生活に入った。孫兵衛は療養しながら趣味を生かして庭園を造り、園内に数棟の別館を建て、知人友人と共に楽しむことにした。

万葉公園案内図

日露戦争後、湯河原が傷痍軍人の保養地に指定され、自由に散策できる場所として解放され、以来「養生園」と呼ばれるようになった。
この養生園を利用した著名な人物は、東郷平八郎である。(日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、のちに元帥となった)
東郷は大倉一族への感謝の意を表し、文に綴った。その石碑が、公園内の養生園の跡地に建てられている。

養生園石碑

「壬子(大正元年)の晩秋、余、病を湯河原に養う。毎に霊泉に浴し、つえを養生園に曳く。精気を呼吸し、逍遥自適。心ゆるやかにして、体気ますます荘なるを覚ゆるなり」
「大倉孫兵衛翁自ら費を投じて、此の仙境を開き、衆と之を楽しむ。余既に園の風勝を愛し、今また翁の人為の淡雅なるを喜び、遂に筆を抽きて之の為にしるすなり 大正元年十月」

時期は不明であるが、孫兵衛の息子である和親はこの別荘を温泉場区有地に譲った。このとき「大倉公園」と改称されたが、さらに昭和二十六年、この地は隣接地の「権現山公園」と併せて町立の「湯河原温泉・万葉公園」となった。万葉集の中に湯河原温泉を歌ったものがある(佐々木信綱説)ということから名付けられた、全国で三番目に古い万葉植物園である。

現在では万葉集に登場する八十余種の草花が植えられている。また、万葉の小径として整備された散策道には、湯河原ゆかりの文学作品を紹介した歌碑も並んでいる。

湯河原駅から不動滝行きバスで十二分、「落合橋」下車。朱塗りの落合橋を渡り公園内に足を踏み入れると、木々に囲まれた高低のある遊歩道が続く。川のせせらぎや野鳥のさえずりに思わず時の流れを忘れてしまうような、憩いの場所だ。
園内には九種類の足湯が揃う「独歩の湯」もあり、温泉客が多く立ち寄る観光スポットとなっている。

左:散策道
右:独歩の湯

ちなみに落合橋も孫兵衛と関わりをもつ。
元々の落合橋は川の水位の上昇により毎年のように流され、その度に土地の人々が小さな橋を架けていた。それを気の毒に思った孫兵衛がある年に「本年は私が一手に引き受け、少し大きな橋を架けてあげましょう」と村に申し出たという。それを聞いた村の人々がよその人が架けてくれるのに村の者が見ているだけではいけないと、無賃で手伝うと言う百姓方や寄付をすると言う村の富裕者たちが集まり、立派な橋が出来上がったのだとか。
これに対して孫兵衛は「何人(なんびと)にも慈善心や道徳心のないものはない。やはり人は道と誠に動くものであることを確信いたします」と語っている。

森村組の設立から六代目森村市左衛門と共に外国貿易に尽力し、日本の陶器事業を興した大倉孫兵衛・和親親子の道義的精神。
「私利を願はず一身を犠牲とし後世国民の発達するを目的とす」
これは六代目市左衛門が自身の精神を社員一人一人に植えつけるべく掲げた『我社之精神』を、大正八年に改訂した『我社の精神』の中の一文である。
森村グループ全体の精神と社風の基礎が、様々な逸話からうかがえる。

電子材料部 中澤郁恵

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