※この記事・写真等は、中日新聞社の許諾を得て転載しています。
カメラをぶら下げた中国人観光客や、スーツ姿の白人らが行き交う。歩道には黒人の露店が並び、「人種のるつぼ」そのものの光景が広がる。米ニューヨークの繁華街・ブロードウェイ通り。「541」と番地が書かれた灰色のビルの1階には、ワニのマークで有名なスポーツブランド「ラコステ」が入る。 1884(明治17)年から6年間、541番地には「森村ブラザーズ」という日本人兄弟が開いた店があった。
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二つの波止場から小舟が出入りし、沖合いに止まった大型蒸気船に荷物を運んでいく。1859(安政6)年。黒船が来航して日米修好通商条約が結ばれ、開港された横浜港。江戸で売る洋風雑貨を仕入れるため港を訪れていた二十歳の森村市左衛門は、知人の米国人貿易商ユージン・バン・リードが金の小判を箱に詰め込んでいるのを見つけた。 「その箱をどうするのか」。市左衛門が問うと、リードはにやりとして言う。「日本では何も買うものがないから、小判や銀を持っていくしかない・・・
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狭く険しい坂道をあえぐように荷馬車が上る。荷台の木箱には「白生地」と呼ばれる絵付け前の白い焼き物がぎっしり。馬一頭では重い陶磁器を引いて上がれない。運送業者は後続の馬車を待って二頭で峠まで上り、戻ってもう一台を再び二頭で引き上げた。(中略) 岐阜県東濃地方から愛知県瀬戸市にかけての地域は、国内最大規模の陶磁器の産地だった。
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一枚の皿が純白かどうかをめぐって、森村組(現森村商事)の首脳二人が大げんかを始めた。「純白」だと言い張ったのは、新商品のディナーセットの開発に挑んでいた大倉孫兵衛。 「まだ純白ではない」と切り捨てたのは、義兄で創業者の森村市左衛門だった。(中略)大倉が苦心して作り上げた皿は、土の特性からわずかに灰色がかっていた。
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工場内に険悪な空気が流れていた。純白のディナーセットが実現しないまま、日本陶器で開発を担う技師長の飛鳥井孝太郎(故人)の一派が、新進気鋭の技術者、江副孫右衛門(故人)を排除しようとする。江副は生地や窯など幅広い研究に精を出していた。
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見慣れない三角形の陶磁器製の二つの破片が、目の前に差し出された。「これを日本でつくれないか」。1905(明治38)年、前の年に日本陶器を立ち上げた大倉孫兵衛と、長男で初代社長の和親の元を、芝浦製作所(現・東芝)の若手技師が訪れ、こう切り出す。破片は送電時の感電、火災などの事故を防ぐために必要な絶縁体の高圧がいし片。「今後、電力需要がどんどん増える。こういう素材の高圧がいしが必要になる。」
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かさを重ねたような陶磁器製の高圧がいしが、見渡す限りびっしりと並ぶ。4万ボルト用で高さ40センチ、一個の重さは17キロほどある。1914(大正3)年、今の名古屋市西区にあった日本陶器合名会社(現 ノリタケ株式会社)の本社。この年に始まった第一次世界大戦が好景気をもたらし、がいしの受注も激増していた。
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日本ではめったにない水洗トイレが、どこへ行っても当たり前のように備わっていた。1903(明治36)年、陶磁器研究のため英国やドイツなど欧州各地を訪れた大倉和親は、用をすますとすぐに水で洗い流せる快適な水洗便器に心を奪われる。「いずれ衛生陶器の時代が来る。今から国産化を急がねばならない」。
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生産量は週に150万個。1920(大正9)年、自動車などに使う点火プラグを生産する米デトロイトのチャンピオン社。米国内の電力用がいしの工場視察の合間に立ち寄った日本碍子(現日本ガイシ)工務部長の江副孫右衛門は、桁違いの生産規模に驚く。「この国にはそんなにプラグの需要があるのか」
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終戦後、進駐軍の基地にあった日用品や飲食物を売る売店で米兵がせがむ。「これじゃなくてノリタケの皿を売ってくれ」。米兵が指差す皿には見慣れない「ローズチャイナ」のマーク。日本陶器株式会社(現 ノリタケ株式会社)の食器から、伝統のブランド名「ノリタケ」が消えていた。米兵はがっかりする。
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森村グループ躍進の背景には、創業者の森村市左衛門と豊の兄弟らの才覚に加え、森村組(現森村商事)の番頭役を務め、ニューヨークでも活躍した村井保固の貢献があった。波乱に満ちた村井の生涯を2回に分けて紹介する。
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扇子や陶磁器を荷造りすると、小さな事務所の床に積もったほこりがもうもうと舞い上がる。1879(明治12)年、東京・銀座の森村組。新入りの村井保固は、汗まみれで輸出する商品を仕分けしていた。慶応義塾の同窓で、後に「憲政の神様」と呼ばれる尾崎行雄が訪ね、華やかな外国貿易のイメージとはかけ離れた地味な姿を見て哀れむ。
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連載した「時流の先へ 中部財界ものがたり」では、森村グループで衛生陶器の東洋陶器(現TOTO)などを立ち上げた大倉和親の活躍を取り上げた。 大倉は愛知県常滑市の土管工、伊奈初之烝、長三郎親子(ともに故人)を支援し、タイル製造の伊奈製陶(後のINAX、現LIXIL)の礎も築いた。大倉と伊奈製陶を結んだ固い絆をたどる。
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