ここに「慶應義塾三田初期の塾生」という一枚の写真(明治7年4月20日撮影)がある。森村市太郎(六代目市左衛門)の弟豊吉が慶應義塾で勉学を修了し、母校の助教になった明治7年に同僚たちと撮った写真である。同僚は、後列左から加藤恒七良、雨山達也、波多野承五郎、中列左から林茂吉、箕浦勝人、小林撤三良、高木怡荘で、前列中央に座っているのが豊吉1 21才である
1853年のペリー来航、1858年の日米通商条約締結、それに続く箱館・新潟・横浜・長崎・神戸の開港により、外国人居留地での商業が活発になっていた。開港により、日本の経済に「自由競争」という新しい原理が持ち込まれ、各藩は沿岸警備の必要性を幕府から命令され、跋扈する外国人を取り締まるように努めたが彼らの商業活動は一段と激しくなっていた。
「慶應義塾三田初期の塾生」
出典:慶應義塾福澤研究センター
市太郎は、横浜港が開かれると、すぐに横浜へ行き、外国人と会って、唐物類(舶来雑貨)についての知識を学び、古服、古靴、書籍、鉄砲、パン、シャボンなどといった品物を買い入れてきて、町を売り歩いた。さらに洋服や雑貨を土佐藩や中津藩などにも納めた。市太郎は中津藩奥平家の家老、桑名登氏の紹介で福澤諭吉の知遇を得、これからの日本は海外との貿易を盛んにして通商立国にならなければならないと教えられた。市太郎が外国貿易をやろうと考えたのは常日頃から熟慮しての強い決心であって、それは私利私欲のためではなく、国家を思う熱情から起こったもので、ただ金儲をしたいということではなかった。
市太郎には、外国貿易の必要性が分かっていたが、自ら外国語を学ぶ余裕がなかったので、弟の豊吉に時代に即した商業教育を施すことに決め、当人の同意を得て福澤諭吉に頼んで、慶應義塾へ入学させた。「弟を塾に入れますが、どうぞ商人になるよう、御仕込みを願います」というと、福澤は非常に喜び、「貴下は珍しい考えを持っておられる。今時の若い者は、皆、政治家になると言って勉強しているのに、貴下は弟君を商人に仕立てて外国貿易の戦士にするといわれるのは、どうも面白い考えだ。私はかねてから、将来国を富ますには貿易にかぎると信じている。その貿易商人にするとは、まことに立派なお考えだ。よろしい、骨を折って見ましょう2。」と言って引き受けてくれた。
豊吉が慶應義塾に入塾したのは、明治2年(1869)、塾は鉄砲洲からすでに三田に移転していた。学んだ学科は脩心論、経済、歴史、地理、窮理、算術、文典で、教科書には米国より取り寄せたハイスクール程度のものを主として採用し、教師には福澤を筆頭に、主として鉄砲洲時代に学んだ人たちをもってその陣容を構成し、時間割は洋風の七曜制を採用して日曜を休みとした。毎日の授業は午前9時から午後4時までで、学習の方法は、講義、会読、素読の三形式になっていた3。明治2年(1869)の『慶應義塾新議4』のなかの「義塾読書の順序」によると、先ず英語入門の手ほどきをうけ、次いで文法書を読む。これを三ヵ月くらいで仕上げ、続いて地理書又は窮理書を六ヵ月かけて読む。最後の六ヵ月には歴史書を一冊読む。以上が素読過程とも呼ぶべき通常のコースで、「これにて大抵洋書を読む味も分かり、字引を用い、先進の人へ不審を聞けば、銘々思々の書を試に読むべく、むつかしき書の講義を聞いても、随分その意味を解すべし5」というわけである。福澤の講義は、ウェーランド6 の経済書を教科書にして行われたが、単に原書の意味を解明するにとどまらず、その所論を時勢に当てはめ、世間の実例に照らして説明するという風で、非常に面白く、講義の間に福澤の意見もおのずから覗うことができたという。
慶應義塾の月謝は4円だった7。市太郎にとってこの金額を捻出することは大変なことであった。豊吉にはいずれ外国貿易をするという確固たる信念があったので、勉強はきつくなく、いずれの学科も優秀な成績をあげた。ここでみっちりと仕込まれたことが、アメリカに渡り、雑貨商の店舗を開店させることの重要な布石になったのである。
森村悦子(パリ日本文化会館図書館 前主席司書)