森村商事株式会社

歴史コラム:モリムラ・ブラザーズと日米交流

モリムラ・ブラザーズと日米交流

モリムラ・ブラザーズは、森村豊が渡米した1876年から日米開戦による1941年の閉鎖までの約66年間、アメリカでの営業を継続したという点で、近代の日本企業の中でも稀な存在であると言えますが、その営業活動を通して、日本人社員とアメリカ人社員との交流は深まっていきました。今回は現存する史料や写真から、当時の日米社員の詳細や彼らの交流の様子についてご紹介します。

モリムラ・ブラザーズの社員たち

(1)日本人社員

まず、モリムラ・ブラザーズ社員の詳細については、日本人のみで、1898年に16名、1909年に25名以上がニューヨークで働いていたことが分かっています。このうち、1909年については、日本人社員の集合写真が載せられたモリムラ・ブラザーズからのポストカード(図1、森村商事株式会社所蔵森村三樹雄宛てポストカード1909年8月12日消印)が現在も社内に残されています。写真横の手書き文にあるように、彼らは「各自特有の生質をよく顕し」ながら、モリムラ・ブラザーズでの仕事に尽力していました。

図1 モリムラ・ブラザーズからのポストカード(1909年8月12日消印)

(森村商事株式会社所蔵)

日本人の社員は、なかには現地採用の社員もいましたが、基本的には日本国内の森村組(現森村商事)や日本陶器(現ノリタケ)で数年働いた後に、ニューヨークへの異動を命じられる社員が多かったようです。また、図2は同じく社内に残されていた1914年頃(推定)のモリムラ・ブラザーズ日本人社員の集合写真です。

図2 モリムラ・ブラザーズ日本人社員(1914年頃)

(森村商事株式会社所蔵)

なかでも、1910年代以降のモリムラ・ブラザーズの発展に貢献した日本人社員に、飯野逸平がいました。飯野は、支配人の村井保固と同郷(愛媛県宇和島市吉田町)であり、その縁で1904年に日本陶器に入社し、名古屋の大倉孫兵衛邸に寄宿しながら工場勤務をしていましたが、1912年、ニューヨーク行きを命じられました。当時、30才でした。1913年に、ラーキン社というアメリカ大手通信販売会社からの大量受注を獲得したのは、着任早々の飯野でした。彼は村井が現役を退いた後、日本陶器での勤務経験を活かしながら日米間を何度も往復し、生産と市場をつなぐ役割を果たしました1

(2)アメリカ人社員

一方、営業部のセールスマンにはアメリカ人社員が多く配置されました。彼らは全米各地を巡回して注文をとるトラベリング・セールスマン(Travelling Salesmen)と、店舗内で顧客を相手にするストア・セールスマン(Store Salesmen)に分けられていました。売り上げの大半は顧客から直接注文を取るものであったので、トラベリング・セールスマンの方が、モリムラ・ブラザーズの中では花形的存在であったと言えます。

ちなみに、アメリカ国内の流通網の拡大により、1910年代にはボストンとシカゴにも出張所が置かれましたが、拠点を設け在庫を持つよりも、このトラベリング・セールスマンが見本帳を持って定期的に各地を巡回する方が効率的であると判断され、この2出張所はまもなく閉鎖されたという経緯もあります2

アメリカで同じく陶磁器販売をおこなっていた日本商社に「関西貿易会社」がありましたが、同社が1891年に解散した際、村井保固はその幹部たちをモリムラ・ブラザーズの社員として採用しました。その中でも、チャールズ・カイザー(Charles Kaiser)という関西貿易会社では簿記方として勤めていた人物の、セールスマンとしての才能を村井が見出したことは特筆すべき事実です。カイザーは、その後のモリムラ・ブラザーズを大きな発展へと導く重要人物で、アメリカ人社員としては最長の勤続40年でした。セールス・マネージャーとして、アメリカ人の趣味・嗜好、文化、商慣習などを理解した営業をおこなったため、モリムラ・ブラザーズの売り上げに非常によく貢献しました。第一次世界大戦時にドイツ製品がアメリカ市場から一時撤退したことにいち早く目をつけ、ドイツ品の取引先に積極的に営業をかける方針を実行したのも彼でした。また、活躍したのは販売面のみならず、意匠や図案に関しても卓越した鑑識眼を持っていたため、売れ筋商品を見極め、得意先の信用を獲得することに成功しました。妻子を連れて何度も来日し、名古屋の日本陶器において製品ラインについてアドバイスをおこなっていたことも分かっています(図3)。

図3 チャールズ・カイザー
①チャールズ・カイザーと日本陶器社員(1931年日本陶器本社工場にて撮影)

②来日中のカイザー一家(1914年5月14日撮影)

(森村商事株式会社所蔵)

創業以来支配人を務めていた森村豊が1899年に胃癌のため46才の若さで亡くなると、その後の支配人は村井保固が引き継ぎ、豊亡き後のモリムラ・ブラザーズは、村井とカイザーの協力体制で事業が進められました。この頃から、アメリカ人社員を多数雇用するようになり、モリムラ・ブラザーズは真に国際的な企業となっていきます。日本人とは異なるアメリカ人の趣味や嗜好を理解し、アメリカの文化に馴染んだ営業方法で顧客を獲得していくことは、モリムラ・ブラザーズにとって極めて重要な組織づくりであったのです。

他にも、運輸業界の専門家であるヒッチコック(C. A. Hitchcock)を運輸部主任として採用し、輸送全般についてはこのヒッチコックの指示を仰ぎ、アメリカ国内の輸送をできるだけ効率よく低コストでおこなえるよう改善しました。例えば、それまで、横浜港および神戸港から積み出された商品は、太平洋岸に着荷し、いったんニューヨークへまとめられたあと分送していましたが、ニューヨークから遠方の地域への発送は、太平洋沿岸の税関仲介業者に通関業務を委託し、ニューヨークを経由することなく、顧客へ直送するようにしました3

また、元アメリカ合衆国税関鑑定官のウォーカー(David Walker)を税関部主任として雇い、アメリカの税関対策のノウハウを引き出しました4。例えばウォーカーは、自らの来日調査や鑑定官時代の個人的人脈によって得た情報を社内に示しました。税関当局の目が日本製陶磁器に対して厳しくなりつつある1928年時点においては、「米国各税関のアプレーザー〔税関査定官〕は皆MB〔モリムラ・ブラザーズ〕の通関に対しては満足して居る」との見方を示し、このような意見は東京や名古屋の幹部にもすぐに伝えられました5

彼らはおそらく、1870年から1910年頃のアメリカにおいて急増した、技術者、専門職、事務職、セールスマンなどから成る「新中産階級」6と呼ばれる階層に当たると考えられます。彼らがこの時期に増加したアメリカ企業のいわゆる「中間管理職」を支えた、と言われていますが、その階層がモリムラ・ブラザーズの経営にも貢献したと考えられるのです。

このように1910年代から1920年代頃のモリムラ・ブラザーズでは、日本人社員の活躍もさることながら、アメリカ人社員を重用しながら、また社員の役割分担を明確にしながら、アメリカ社会での国際的な経営を維持し続ける努力をおこなっていたのです。

ただし彼らのマネジメントは容易くはなかったようで、飯野逸平は次のように語っています。

何様商売に於てカイザー、税関に関しウォーカー、共に米国中の其の道に懸けての逸物、一と癖も二た癖もあり、荒馬を飼ふに等しく、金も懸るが、何んと申しても大切なる役者に有之、大局上、保険に懸ったつもりで同氏を力一杯働かせる事有意義且つ肝要事中の肝要事と深く感じ申候也7

いずれにしても、このように外国人をマネジメントする経験を明治前期から継続して積んでいたモリムラ・ブラザーズは、日本の国際企業の原点として捉えることができるのではないでしょうか。

50周年記念パーティー

モリムラ・ブラザーズは日米社員の平等な待遇を徹底したため、日本人社員とアメリカ人社員との信頼関係は厚かったと思われます。図4は、1926年11月11日にニューヨークの「ホテル・ペンシルヴァニア」で、モリムラ・ブラザーズの創立50周年を記念して開催された社員パーティーの写真です(写真には、“DINNER AND DANCE GIVEN BY MORIMURA BROS, INC. TO THEIR EMPLOYEES COMMEMORATING THE FIFTIETH ANNIVERSARY, HOTEL PENNSYLVANIA, NEW YORK CITY NOVEMBER 11th 1926” と書き込みがあります)。多くのアメリカ人社員と、日本人社員との親しげな雰囲気が伝わってきます。1876年に森村豊が海外貿易を志し、単身で渡ったニューヨークにおいて、その50年後にはこれほどまでに多くのアメリカ人(アメリカ以外の外国籍の者も含む)を雇い、そこにこのような交流が生まれていたことは、モリムラ・ブラザーズの飛躍的な発展を象徴すると同時に、近代日米交流の1シーンを表しています。

図4 モリムラ・ブラザーズ創立50周年記念パーティー(1926年)

(森村商事株式会社所蔵)

最後の別れ

モリムラ・ブラザーズにはアメリカ人社員の永年勤続者が多かったことも、注目すべき特徴です。1941年8月の閉鎖時点において、勤続10年以上のアメリカ人社員およびその他の外国人社員は26名も数えられます8。 日米開戦を目前にした1941年11月27日には、残り数日で退社することになるアメリカ人社員約50名が、残った日本人社員を招いて最後のディナーパーティーを開きました(詳細は、歴史コラム「戦争とモリムラ・ブラザーズ」をご参照ください)。このパーティーではみな涙を流し、将来の再会を約束したことが記憶されています。 このように、モリムラ・ブラザーズの活動は、深い絆で結ばれた日本人とアメリカ人の人間関係を生み出しました。貿易活動が国際交流につながったという事例はなかなか具体的に見えてきにくいものですが、戦前のモリムラ・ブラザーズの活動は、まさに近代日米交流の一側面を担っていたと言えるのではないでしょうか。

今給黎佳菜(博士、お茶の水女子大学修了)

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