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歴史コラム:ゆかりの地③ 「大倉山記念館」

ゆかりの地③ 「大倉山記念館」

「大倉山記念館」

横浜市港北区内、東急東横線沿線に「大倉山」という駅がある。
東横線が全線開通した昭和7年に「太尾駅」から改称された駅名だ。
その由来となったのは駅から程近い丘の上に建設された「大倉精神文化研究所」であり、その設立者は大倉邦彦。

六代目市左衛門と共に森村組の設立から森村グループの基盤を作った、大倉孫兵衛の孫にあたる人物である。

大倉邦彦は、佐賀県神埼郡(現神埼市)の素封家江原家に生まれ、上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社した。大倉洋紙店は錦絵を製造・販売していた大倉孫兵衛が明治22年に開業した洋紙の輸入商社である。2代目社長の大倉文二に見込まれて養子となり、文二の後死後に社長に就任した。

邦彦は社長として事業を大きく発展させたが、真の経済活動とは単なる利益追求ではなく、個人の成長の上に会社の発展があり、国家の繁栄があると考えていた。

戦争、震災、米騒動などが起きた大正時代、政界や経済界、日本全体が混乱し日本古来の精神や思想が揺らいでいることに、邦彦は危機感をおぼえる。

そこでまず重要なのは教育であると考えた邦彦は、私財を投入し目黒の富士見幼稚園、郷里の佐賀に農村工芸学院を開設した。
邦彦のこれらの思想は市左衛門や孫兵衛が貫いた信念に影響を受けたものだろうと考えられている。

昭和7年、邦彦は横浜の地に大倉精神文化研究所を設立した。
設計者は古典主義の大家と言われた長野宇平治。建物全体は西洋の古典主義建築様式で建てられているが、内部には東洋の木組みが用いられている。

東西文化の融合。これを研究所の基本とした邦彦は、その精神を具象化したのだ。
「東西両洋における精神文化の科学的研究を行い、知性並びに道義の高揚を図り、公民生活の向上充実に資し、もって世界文化の進展に貢献する」ことを研究所の目的として掲げ、各分野の研究者を集めて学術研究を進めた。

邦彦は研究所の所長としてその運営・指導にあたる。
また、昭和12年に東洋大学学長に就任。昭和36年に大倉洋紙店会長となり、昭和37年には皇學院大学の創立に際し学事顧問となるなど、実業家としてだけではなく教育者として尽力した。昭和46年逝去。
邦彦の死後その維持が困難となり、研究所は昭和56年に敷地を横浜市に売却、建物も寄与した。

市による大規模な改修工事が施され、昭和59年に「大倉山記念館」として開館。平成3年には横浜市の有形文化財に指定された。
集会室やホールは市民に貸し出されるほか、音楽会や美術の展示など市民の文化活動の場として活用されている。
記念館内に存続している研究所は、その研究成果の刊行や定期的な講演会の開催などを行っている。

研究所の付属図書館には邦彦が国内外から集めた哲学・歴史などの入門書から専門書のほか、新刊書やベストセラーの本なども揃う。
大倉山駅から7分、丘の上にある大倉山公園の中に堂々と、けれどひっそりと建つ大倉山記念館。

映画やドラマ、写真等の撮影スポットとしても人気があるという。
一歩足を踏み入れると歴史ある建物の匂い。高さ約21mの吹き抜けを見上げると、どこか神聖な心持ちになる。

記念館のエントランスと研究所付属の図書館は一般公開されているので、大倉山公園の散歩とあわせてぜひ一度足を運んでみてほしい。

電子材料部 中澤郁恵

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