明治9年、森村組の最初の事務所は、銀座にあった「モリムラ・テーラー」の2階に設けられた。まさにここから森村組は始まったのである。しかし、どの文献を読んでもモリムラ・テーラーの実態についてはほとんど分からない。時代が下るにつれて誤って伝えられてきた事実もあるようだ。今回は、森村組の源流を探るという意味で、このモリムラ・テーラーについて少し調べてみた。
創業者の森村市左衛門は、森村組創設時のことを次のように回顧している。
この「洋服裁縫店」こそが、森村組に先駆けて市左衛門が開業した「モリムラ・テーラー」である。元々、市左衛門は幕末に馬具の製法をフランス人デ=シャルムから学んでおり、明治維新後は政府御用達の馬具製造所を経営していた。そこで得た資本がテーラーという新たな事業への着手を可能にしたのであろう。
時は明治、西洋文化が日本人の生活習慣を次々と変えていく中で、洋服の需要も大きく伸びた。そこでいち早く銀座というモダンな街で開業したモリムラ・テーラーは、「日本における洋服裁縫店の嚆矢」と称された。そして、そこでの資金を元手として、森村組が創設され、森村豊の渡米がかなったのである。市左衛門の商売における着眼点は、いつも鋭かった。
テーラーの創業年については諸説ある。明治37年の『実業の栞』には、「明治維新前に開業し今なお継続している洋服裁縫店」の一つとして挙げられている。一方、昭和2年の『商工組合年鑑』を見ると、モリムラ・テーラーは「創業明治四年」となっている。いずれにせよ、銀座四丁目一番地(現在の教文館の位置)に落ち着いたのは、明治6年の銀座の煉瓦街完成以降のことである。なお、明治27年の『東京諸営業員録』には、「洋服裁縫部」の項に「洋服裁縫・フランネル 森村組 銀座四ノ一」と出てくる。
次のようなエピソードも残っている。明治13年、外遊の準備を整えていた谷干城は、後藤象二郎が「西洋では赤ズボンが流行している」と勧めるので「森村洋服店」で赤いズボンを調製し大得意で乗船したところ、外国人に笑われたという。
モリムラ・テーラー縫製と思われる現存品は、2点確認できる。一つは岩﨑彌之助着用の「有職者(男爵)大礼服」で、もう一つは綾井武夫着用の「フロック・コート」である(写真参照)。いずれも襟元のタグに「MORIMURA TOKIO」とある。制作年代は不明であるが、明治29年6月23日、モリムラ・テーラーは、当時市左衛門の番頭を務めていた新(しん)川(かわ)伝次郎という人物に引き継がれ「新川洋服店」となるため 、それ以前の制作と推測される。
市左衛門の別の回顧にはこうもある。「当時の洋服店はその後私の最も信用していた店員の一人新川伝次郎氏に与えた。今銀座にある新川洋服店というのはそれである。」
市左衛門(右)と新川氏(左)
その後、店は伝次郎の息子・寅之助が任された。新川洋服店がいつ頃まで営業していたのかは定かではないが、今回の調べでは昭和2年の「洋服裁縫・羅紗直輸入 新川洋服店」という記録まで確認できた 。その当時の従業員は60名とあった。
明治33年までに東京市内の洋服店は6千軒にまで増えた 。日本の洋服文化の歴史としても、森村の経営史としても、モリムラ・テーラーおよび新川洋服店のことはもっと明らかにされるべきであるが、どのような営業をしていたか、得意先はどこであったかなど、まだまだ分からない点は多い。今後に期待したい。
*モリムラ・テーラーについて情報をお持ちの方はぜひお寄せください。
*写真著作権は資料所蔵先にあります。転載等はご遠慮ください。
今給黎佳菜(博士、お茶の水女子大学修了)