MORIMURA BROS., INC.

歴史コラム:森村豊の渡米③

森村豊の渡米③  「日の出商会」の一角からのスタート

イーストマン・カレッジ卒業後の豊は、佐藤百太郎とパートナーシップを組んで、日本の輸入雑貨を販売する「日の出商会」(Japanese Hinode Store)を設立しました。この時豊は1,500ドルを出資しました。

ニューヨークマンハッタンの1877年版の住所録では、 “Japanese Goods. Sato Momotaro, 97 Front〔フロントストリート97番地〕” という記述が確認できます1。豊の事業は、この「日の出商会」の一角からスタートしたのです。ここで豊は、市左衛門が日本各地を奔走して仕入れた美術工芸品や骨董品を販売しました。また、1876年にアメリカ初の万国博覧会として開催されたフィラデルフィア万博での日本品の残品も販売したようです2

当時のことを、市左衛門は後年次のように語っています。

アメリカに行き、イーストマン商業学校に入り、卒業した豊が、さあ商売をやるという段になると、生糸は新井君〔新井領一郎〕が専門にやるということで、この見本は同人に渡し、自身は雑貨をやることにきめまして、私の所へその一切の事情を申してきました。それなら何か仕入れて送って見ようと考えましたが、別に資本のあるわけでもなし、さしあたり家にある古物を取り出し、また、廣瀬さん〔廣瀬実栄〕に行き、何か古物があるならお出しなさい、アメリカへやれば高く売れる、といって調達し、そのほか中通りの道具屋で安物の蒔絵、紀州焼の花生、印籠等およそ二箱ばかりを買い込んで、荷造りして積出しました。アメリカでは豊らがフロントストリーツに小さな一室を借りて之を売り捌く。この頃は日本品が珍しい時分であるからすぐれて売れて、注文が初めて来た。注文には古物のほか、新しい漆器、陶器などをはじめ色々申してきた。前の金がこないのにまた次の注文で、仕入の金に困り、自分の衣類、刀剣、袴等、家内の衣類も皆売り捌き、これを元手として仕入れた物を送りました。〔中略〕その時分は仕入れをするには、風呂敷包み、天びん棒を担いでほうぼうへでかけて、かけ回り、荷造りも何もかも自分でやり、さんなき車〔三泣車〕で汽車まで持って行くというふうでありました。大倉さん〔大倉孫兵衛〕も私の仕事に大いに賛成して、毎日ご自分の商売の合間に来て手伝ってもらったものです3

この「日の出商会」で、豊は、同じ「オーシャニック・グループ」のメンバーで、生糸輸出のために渡米した新井領一郎との絆を深めていきます。1878年7月頃、豊が日本へ一時帰国していた間は、新井が代わりに豊のブースの管理をしていたことが、豊が新井に宛てて書いた手紙から分かります。これはカリフォルニア大学UCLAに所蔵されている、1878年7月13日付の英文書簡で、その中で“While my absence I am very much obliged to you for your kind care of our store and my brother and friends thank you for the same.”と書かれています。この二人の親交は厚かったようで、異国の地で、お互い助け合い、励まし合いながらそれぞれのビジネスを実現しました。図1は、1886年元旦にニューヨークで撮影された森村豊と新井領一郎の写真です。

図1 森村豊と新井領一郎(1886年1月1日、ニューヨークにて撮影)

出典)森村勇編『おもかげ集』(森村商事株式会社所蔵)
注)左が新井領一郎、右が森村豊

しばらくして、豊は佐藤百太郎とのパートナーシップの解消を考えるようになります。その原因は、佐藤が1877年に多額の借金を負ったこと、また共同経営では意のままに日本に売り上げを送金出来ないと考えたことが挙げられます4。 そして1878年、豊は、ニューヨーク州法に基づく現地法人として「モリムラ・ブラザーズ」を設立しました。先に触れた住所録の1878年版では、フロントストリートから移転していた “Sato Momotaro & Co. 38 Fulton” とは別に、 “Morimura Brothers & Co. 238 Sixth av.” という記述が確認できます5。この立地は、ニューヨークの小売業の中心地であった14丁目に近接しており、上流顧客が馬車を店頭につないで買い物をするというような光景がよく見られる場所でありました6

そして独立して1年が経った1879年の売り上げは5万ドル、1881年の売り上げは10万ドルと、豊のニューヨークでのビジネスは順調な滑り出しを見せたのです。その後、紆余曲折を経て、陶磁器販売に特化し、20世紀に入るとノリタケ・ディナーセットを主力として飛躍的に事業を発展させます。豊は1899年に46歳の若さで亡くなってしまいますが、その異国の地での努力は、村井保固を始め、多くの日米社員に受け継がれ、モリムラ・ブラザーズは日米貿易関係の構築に大きく貢献しました。

今給黎佳菜(博士、お茶の水女子大学修了)

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