MORIMURA BROS., INC.

歴史コラム:森村組の起業家たち③

市左衛門の経営理念に魅せられた政商:久原房之助

東京港区白金台にある敷地1万2千坪の広大な日本庭園と屋敷は八芳園と呼ばれ、現在はレストラン・結婚式場として使用されている。四季折々の変化に富んだ自然が美しいこの屋敷は、大正時代から久原(くはら)房之助(ふさのすけ)の邸宅であった。久原房之助と言ってもピンとこないかもしれない。しかし、日立製作所や日産自動車などの源流である久原鉱業を1912年に興し、実業家として成功したのち政界に入り、1928年の田中儀一内閣で逓信大臣になった人物と言えば、彼が日本の近現代史に遺した足跡の大きさが窺われるだろう。その久原が学業を終え、自らの将来を真剣に考えた時に理想のモデルとしたのが森村市左衛門の生き方だった。「貿易業を営む商社で、人に使われて、実習するに如かず」と考え、市左衛門の経営する森村組に入社するのである。

久原房之助は1869年(明治2年)、長州の唐樋町(現在の山口県萩市)に生まれた。父庄三郎は酒造業を営んでいた。その頃、父の実弟藤田伝三郎は、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾などを払い下げた機会を捉えて、それらを大阪に搬送・販売して巨利を得た。大阪に目を付けたのは正解だった。東京は純粋の商売人が少ないため政界を離れて商売はできないが、大阪は商人の集合地だからわき目もふらず一途に商売ができるからであった。1873年(明治6年)、庄三郎は、萩に見切りをつけ、伝三郎を頼って大阪に出る。こうして兄弟で藤田組を設立し、西南戦役が起こると、軍需品を調達し、事業を拡大していく。官業払い下げの機会に、有利な条件によって政府事業を独占する実業家も多く見られた。庄三郎は、藤田組に大きな意義を持つ小坂鉱山払い下げの重責を果たし、伝三郎とならんで関西財界では一目置かれていた。そんな環境のなかで房之助は育った。

十三歳になった房之助は、商法講習所(東京商業学校、現一橋大学)に入学した。庄三郎は、四男の房之助に後継者として期待を寄せていた。明治十八年、房之助は東京商業学校を優秀な成績で卒業した。十七歳だったので、もう少し勉強したいと思った。「人生の根本原理を学ぶために福澤諭吉先生の慶應義塾に入りたい」と思った。福澤を慕っての入学だったが、その当時、福澤はすでに講座を持っていなかった。代わりに演説館でしばしば聞いたのは森村市左衛門の講話だった。
房之助を魅了したのは、市左衛門の「私は自分の天賦が外国貿易であるので、それを万国平和の根本と信じて、これに尽くすのがすなわち国のためであり、同胞相愛の道と信じてやっている1」ということばだった。市左衛門の話は、弁舌も訥々としてさわやかではなかったが、すべて体験からでたもので、着眼点も斬新であり、房之助の胸を打った。
就職するにあたって、房之助は、資産家の子である自分は叔父と父が中心になっている藤田組の戦力の一端に加わることはしたくなかった。彼は「藤田組に入社して、同族の庇護の中で出発したくない。自分の力を試したい2」と父を説得した。初めは反対した庄三郎も、結局、「他人の飯を食わせる」という理由で賛成してくれた。それどころか、昵懇だった山陽鉄道社長・牛場卓造に息子の希望を話して、市左衛門に取り次いで貰った。しかし、期待は見事に裏切られ、市左衛門から「金持ちの子供は役に立たない。森村組では課長でも重役でも荷車をひいている。私自身が引くこともある。みんなが実地に実業というものを体験しているのだ。甘やかされて育った人間には耐えられまい3」という返事が返ってきた。房之助は実は市左衛門のそのことばを聞いて、益々森村組に入社したいと思ったのである。
しばらく冷却期間をおいて、房之助は森村組入社運動を再開したが、市左衛門の承諾は遂に得られなかった。そこで慶應の同級生で森村組の神戸支店に就職している下田武に相談した。神戸支店は広瀬実栄がすべての実権を握っていた。広瀬は社員から慈父のように慕われている、謹厳実直な人格者だった。房之助の度重なる懇願に広瀬は動かされ、本社には黙認という形で、ようやく神戸支店に倉庫番として雇われることになった。倉庫番だけが広瀬の一存で雇用できるポストだった。早朝から出勤し、残業も当たり前で、積荷の出帆がせまると目が回る忙しさだった。房之助は不満を漏らさず、職務を忠実に果たした。そればかりか、作業の様式や手順についても改善の提案を行い、上司を感心させた。彼の働きぶりはやがて本社の市左衛門にも伝わった。一年半ほど経った時、突然ニューヨークのモリムラ・ブラザース勤務を打診された。今後もモリムラ・ブラザースに奉仕するならば、という条件付きだった。念願の海外貿易の夢が叶うことになり、狂喜した房之助は、準備万端整えて、乗船切符を買い、いよいよ明後日出発するということになった。ところが、ここにきて横やりが入り、この話は取り止めになってしまう。
あれほど隆盛を極めていた藤田組の経営が思わしくなくなり、井上馨侯が仲介して藩主の毛利家から経済援助を受けていたのだった。「久原の息子が、親の仕事を受け継がないでアメリカに行くということは、藤田組が二代続かぬという意味になる。そんな二代続かぬものに今後援助はやれぬ4」という井上侯からのお達しだった。なるほどその通りで、房之助をアメリカにやることは容認できないのだ。
市左衛門は、当然のことながら、庄三郎に会って諒解を得たうえで房之助の転勤を提案し、了承をとっていた。房之助としても、自分の家の方の都合で行かれないとは言えない。男として違約することはできないと思った。
いろいろ考えた末、個人として森村組を辞めることは、森村に対して失礼になるが、藤田組の興廃にかかわることだから、慎重にしなければならない。そこで一策を講じ、森村組と藤田組が相談して、房之助に森村組からニューヨーク行をご破算にし、藤田組に転職せよと言ってもらうことにした。藤田組の使いが東京の森村本社に行き、房之助を藤田組で頂きたいと言った。森村組としてもこうまでされたのでは快く房之助を藤田組に返すしかない。こうして房之助は森村組を円満退社し、藤田組に移籍する。

実は藤田組はこの時点でかなり疲弊していた。今までのように手を広げることを控えて、鉱山事業に主力を注ぐことになった。政府から払い下げられた小坂鉱山(秋田県)の運営を軌道に載せるために、房之助は1895年(明治二十八年)小坂に赴任する。当時の房之助について、「背が高く、色白で、いかにも温厚柔和の美青年」でありながら、「太っ腹で抱擁力の大きい、数千の人を上手に使いこなす骨柄が看取できる5」という証言がある。小坂鉱山を立て直し、日本一の鉱山に育て上げる気骨はすでに認められていたのだろう。小坂での事業は順調に進み、1905年(明治三十八年)に常陸の赤沢銅山を買い受け、「日立鉱山」として開業する。日立鉱山の電気機械製作工場は独立して、後に日立製作所になる。1912年(明治四十五年)に久原鉱業を設立し、以後、次々と北海道、山形、朝鮮などの鉱山を開発し、鉱山王と呼ばれるようになる。しかし、第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出、久原鉱業を義兄の鮎川義介に譲り渡す。1928年(昭和3年)に久原鉱業は日本産業と改称され、後の日産コンツェルンの中核ができあがるのである。

最後に一枚の写真を紹介しよう。1916年(大正五年)に、アメリカの鉄鋼王・USスチール社のゲイリー社長が房之助を訪ねたことへの答礼として、1918年(大正七年)、房之助は渡米する。目的は、日米合弁の製鉄事業を中国で興すという計画を話合うためだった。この話は世界大戦後、久原鉱業が苦境に立たされたので、取り止めになった。しかし、その渡米の折に、房之助はニューヨークのモリムラ・ブラザースを表敬訪問した。下の写真はその時撮影されたものである。

前から二列目中央が久原房之助、その左側がモリムラ・ブラザース支店長の村井保固、右側が久原商事ニューヨーク支店勤務の福島金馬、前列右から二人目は金馬の弟、モリムラ・ブラザース社員の福島三五である。「あのまま渡米して貿易商となっていたら、ずいぶん違った道が僕の前に開けていただろうよ6。」房之助はそんな心情を吐露したとのことである。久原房之助と森村組のつながりを伝える貴重な資料と言えるだろう。(敬称略)

森村悦子(パリ日本文化会館図書館 前主席司書)

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