MORIMURA BROS., INC.

歴史コラム:森村組出身の起業家たち②

モリムラ・ブラザースから日本IBMを誕生させた男:水品浩

IBM(アイ・ビー・エム)と言えば、知らない人はいないIT業界のグローバル企業である。日本アイ・ビー・エム株式会社が正式に発足したのは1949年であるが、その前史は実は1924年から始まっている。モリムラ・ブラザースが輸入したホレリス式統計機の1号機は1925年(大正14年)に日本陶器株式会社(現ノリタケ)に納入されている。この仕事にかかわったのは30歳の青年水品(みずしな)浩(こう)だった。

図1 水品浩

水品浩は、1895年(明治28年)、神奈川県横須賀に生まれた。父の貞四郎は海軍省の舞鶴鎮守府に勤務する会計担当の書記官であった。浩は海軍士官になりたいと思っていたが、強度の近視のために海軍兵学校の受験を諦めざるをえなかった。父が退職した後、家族とともに母の郷里の神奈川県片瀬に移り、一時は外交官を志望したが、経済的理由で大学への進学を断念する。しかし、海外生活への憧れは強く、日米貿易の草分け的存在である森村組のことを知り、1915年(大正4年)森村組の横浜出張所に自ら求めて就職した。

森村組は、アメリカへの輸出品として陶磁器がもっとも評判がよく、将来性があると思われたので、自ら陶磁器の製造に乗り出すことになり、1904年(明治37年)名古屋に日本陶器合名会社を設立した。それから苦闘の10年が過ぎ、1913年(大正2年)、遂にヨーロッパ並みの白磁の八寸皿を創出することに成功した。以後ディナーウェアを大量生産し、大正の終わりには売上げが97万2千円(現在ならば約100億円)に達した。

ニューヨークのモリムラ・ブラザースでは少し前からリネン部を創設していた。ヨーロッパからアメリカへの輸入が欧州大戦の影響で急減した機会を捉えて、アメリカ人の日常の必需品であるリネンや木綿の繊維加工品を販売するようになっていた。森村組本社も横浜出張所を設け、ニューヨークに対応するリネン部を作った。主としてイギリスから生地を輸入し、それを加工してドロンワークのテーブルセンター、肘掛け、ベッドカバー、婦人用衣類などを生産し、アメリカに輸出したのである。

水品浩は横浜のリネン部で輸出業務の見習いをしながら、夜学の英語学校に通っていた。1918年(大正7年)、森村組が改組され、森村商事株式会社になると、彼は社員に抜擢され、日本橋の本社勤務となった。森村商事は森村組の輸出入業務を発展させることを目的として設立され、ニューヨークのモリムラ・ブラザースからの注文品の仕入れ、荷造り、船積みする業務を始めた。社長は森村開作(七代市左衛門)だった。水品は、そこで非凡な才覚を発揮して森村社長に認められ、1920年8月、モリムラ・ブラザースの駐在員としてニューヨークに派遣された。当時モリムラ・ブラザースはニューヨーク西23番街53-57番地に大きな店舗を構え、日本から輸入した陶磁器と雑貨類の直売と卸売を行っていた。水品はここで事務を執り、雑貨の店頭売を担当していた。

製造が業務の日本陶器には、ニューヨークからディナーウェアの注文がひっきりなしに届いた。顧客は希望するカップや皿を選択し、種類、大きさ、個数などを組み合わせて、自由にセットを作り注文した。日本陶器では、伝票の仕分け・集計・製品の原価計算などに常時100人を超す珠算係の女子社員を雇っていた。大正の末期に受注が急増すると、生産管理がいよいよ限界に達した。

1923年(大正12年)、日本陶器は取締役兼支配人の加藤理三郎をニューヨークに出張させ、自社の経営合理化の方策を調査させることにした。加藤はモリムラ・ブラザース副支配人の中山武夫に相談すると、中山は英語が達者な水品を同行させる便宜を図ってくれた。水品は同僚と二人で加藤をニューヨークで開催中のビジネスショウに案内し、展示されている機械の詳しい説明を聞き、モリムラ・ブラザースへの報告書を作成した。水品は、様々な機種を比較検討するなかで、機械の性能、価格と賃貸料、販売形態などでCTR社(The Computing-Tabulating-Recording Co.)のホレリス式統計機が日本陶器に最適だろうと結論を出した。このCTR社が後にIBM社(International Business Machines Co.)になるのだが、当時のCTR社の社長、ワトソンは「価値を生む業務としての営業の意義と理念を社員に徹底し、営業は技術開発と同様に偉大な仕事である1」ことを信条としていた。セールスマンだけでなく技術スタッフの教育訓練を重視し、レンタル方式により機械と部品の品質維持のために顧客サービスを徹底するという、今日のリース業に通じる革新的な経営を行っていたのである。水品が推薦した機械を日本陶器は名古屋工場に設置したいと言ってきた。

図2 日本陶器の計算課

ところが、IBM2 にその旨を伝達すると、思わぬ返事が返ってきた。「モリムラ・ブラザースのニューヨーク店で使用すると思っていたが、名古屋の工場で使用するのであれば、残念ですが契約はできません3」とブレトマイヤー副社長が言ったのである。「わが社の統計機はすべてレンタルで、日本に代理店がない現在、商談に応じることはできません。アフターサービスが不可能だからです。」顧客の利益を経営の柱とするIBM社にしてみれば当然のことである。熟慮の末、水品は大胆な提案を行った。「お差し支えなければ、私にそのサービスの技術を教えて頂けないでしょうか。」最初のコンタクトから何度も面談し、水品の人柄と才能を理解していたブレトマイヤー副社長は、水品の提案を受諾して、IBMのエンディコット工場で実習生として受け入れることになった。極めて異例なことだった。実習は5ヶ月にわたった。

水品は実習期間中にこんなことを思った。「日本陶器だけがこの機械の恩恵を受けるのは勿体ない。日本の官公庁や会社でも必要としているに違いない。自分たちの力で国内に普及させることができれば、日本の進歩発展のためにどれだけ役立つことだろう4。」水品はこの構想をモリムラ・ブラザースとIBMに伝えた。こうして、1925年(大正14年)5月、両社の間で統計機の極東における代理店契約が締結された。

日本代理店となった森村商事は統計機を扱う部署を日本橋の森村銀行内に設けた。森村商事は年間5台の契約を取る義務を負っていたので、日本陶器から機械を借り出して、1926年(大正15年)11月に展示会を行った。森村社長はこの展示会に大きな期待をかけ、官公庁、大手銀行、保険会社などに案内状を送り、財界人を招待した。それに応えて日本銀行総裁を初め、政界・財界のお偉方が大勢集まった。それは日本におけるビジネスショウの先駆けでもあった。水品はあらゆる手段を講じてこの機械の利点を紹介したが、契約は結局得られなかった。その理由は、レンタル方式がよく理解されていないことにもあった。更に、機械の維持費・修繕費を無料で行うといってもコストは膨大なものであった。多くの企業はその頃、集計・分類・作表に人力を使っていたが、その方がはるかに経済的であった。

他方、幸か不幸か展示会が開催される前に三菱造船株式会社から打診があり、欧州大戦後の造船不況を克服するために、同社の神戸造船所と長崎造船所に2号機と3号機を設置する仮約束ができていたので、森村商事はその代理店契約を履行する義務があった。しかし、財界には欧州大戦後の不況と関東大震災後の復興に対処するために「本業に戻れ」という動きがあったので、森村商事は着手したばかりのこの事業を断念せざるを得ないと感じた。契約期限(2年)は1927年5月迄あり、日本陶器、三菱造船に対するカストマー・サービスを継続しなければならなかった。森村社長はニューヨーク時代からの知己で、銀座でタイプライターの輸入販売を行っていた黒沢貞次郎に相談を持ちかけた。代理店契約の解消にはブリトマイヤー副社長が来日し、ことは円満に解決したが、水品はサービス業務を継承するために森村商事を辞めて黒沢商店に移籍することになる。

水品の仕事は、日本陶器入社早々の岩田荘一(後の岩田蒼明日本陶器社長)に引き継がれた。岩田は水品から機械の操作を学び、自らオペレーターとなり、予約注文の伝票を仕分け、集計、原価計算を行ったのである。

こうして見るとモリムラがIBMと関係があったのは僅か二年たらずだったということになる。水品は黒沢商店に代理権が移ってからほとんど孤軍奮闘で、呉海軍工廠、内閣統計局、日本生命など15件の受注を取った。IBMは1934年(昭和9年)にIBM405型という革新的な会計機を製造し、それによって日本市場へ直接進出する機運が高まった。水品の献身的な努力のおかげだった。資本金50万円、新しい陣容で国内での営業を開始することになる。しかし、やがて日米開戦になり、新会社は大蔵省から敵国資産会社のレッテルを貼られてしまう。1942年には全面的に資産が凍結され、水品は悶々した日々を過ごす。

1946年5月、GHQは「在日連合国財産の返還に関する覚書」を発布した。それに応えて大蔵省令25号「連合国財産の返還等に関する件」が公布施行された。これによって資産凍結が解除されると、1949年(昭和24年)、IBMの経営理念を体現していている者として、水品が再建の中心人物に選ばれる。朝鮮戦争勃発などが追い風になり、日本アイ・ビー・エムは順風満帆の発展期を迎えた。1956年(昭和31年)、水品は初めての日本人取締役社長に選出された。

振り返ってみて、水品がニューヨークに派遣されていなかったら、おそらく彼が日本アイ・ビー・エム設立にかかわることはなかったと思うと、短い期間とはいえ、モリムラがそこで果たした役割の重みも見えてくるのである。(敬称略)

森村悦子(パリ日本文化会館図書館 前主席司書)

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