MORIMURA BROS., INC.

歴史コラム:森村組出身の起業家たち①

アパレルメーカーへの挑戦  株式会社ナイガイ

株式会社ナイガイは、東証一部上場のアパレルである。従業員268名、年間売上高169億円(2017年1月現在)、紳士・婦人・子供の靴下製造がその源泉の老舗メーカーです。この会社の創業者、依田耕一と小林雅一(まさかず)は、100年前、ニューヨークのモリムラ・ブラザースの雑貨部に勤務していた。モリムラ・ブラザースは陶磁器の対米輸出を行った会社として知られているが、創立当初から手広く雑貨の輸出入を続けていたことはあまり知られていない。依田と小林はモリムラ・ブラザースのニューヨーク店で1915年(大正4年)に出会い、意気投合し、日本の近代化に貢献する事業を二人で興そうと心に決めたのである。

依田と小林が出会った頃は、アメリカの自動車産業が右肩上がりで成長し、先端的な技術で物づくりをする産業が隆盛を極めていた。ニューヨークの繁栄は日本から来た二人の若者を魅了した。「セールス(販売)の仕事もいいが、駆け引きをしなくちゃならんのは性に合わない。僕にはこいつは一番の苦が手だねえ。」「僕もそう思うよ。そこへ行くとメーカーはいい。とにかく、黙って、良い品を安く作っていればすむからねえ。駆け引きなんぞをせんでも、それ一点張りでどことも競争に勝てるんだからなあ。全くメーカーが羨ましいよ1。」そんなことを二人は語り合った。セールスの仕事よりメーカーの方が気楽だとは、現実には必ずしも言えないが、二人はこのようにメーカーを作ろうと意見が一致した。

当時はアメリカも第一次世界大戦に参戦したばかりで、国を挙げての特需景気で沸いていたが、とりわけ軍需用品が不足していた。モリムラ・ブラザースでは日本から兵隊用の靴下を取り寄せて売り込み、かなりの収益を上げていた。しかし、アメリカの軍需官から「ほほう、これが日本では靴下というものかねえ。こりゃ、ただ足の突っ込める袋というだけじゃないか。戦争だから仕方なしに買うが、もうこんなのは二度とご免だよ2」と笑われた。この折衝に当った二人は、返す言葉もなく、憤慨した。そこで発奮し、日本へ帰ったら、ただの袋ではない、本物の靴下を製造しようと決心したのである。

依田耕一は明治21年静岡県生まれ、慶應義塾大学理財科を卒業して渡米、森村豊がかつて留学したのと同じコースを選び、イーストマン・ビジネスカレッジで学んだ。そのかたわらニューヨークのモリムラ・ブラザースで商売の実践を勉強した。同じく明治21年山梨県生まれの小林雅一は、20歳で単身渡米した。サンフランシスコの東ヶ崎商店に勤務しながらオハイオ北部大学商科の夜間部を卒業し、ニューヨークのモリムラ・ブラザースに入社したのだった。

こうして二人はモリムラで出会い、一緒に仕事をしながら切磋琢磨し、将来に備えて調査研究を重ねていた。四年ほど経った頃、依田の父親の友人である米山梅吉翁(三井信託銀行創立者・初代社長)が経済使節団の一員としてニューヨークへやってきて、「君もこちらでの勉強もすんだろうから、そろそろ日本へ帰ってはどうか」と言われた。依田としても勿論そのつもりだったので、さっそく森村組の本社に連絡し、帰国したい旨を伝えた。願いは叶って1919年(大正8年)に東京の森村組に転勤となる。仕事はアメリカ車の輸入やメリヤス編機の取り扱いだった。メリヤス編機は自分が始めたいと思った靴下の製造にも大いに関連があったので、仕事はやりがいがあった。しかし、たとえどんなに小さくても起業したいと思っていたから、いつまでもこうしているわけにはいかない。彼は起業する資金を調達するために奔走した。慶應の同窓の友人たちが船会社や鉄鋼会社で羽振りの良いサラリーマンだったので、みな出資を約束してくれた。不足分は明治海運の社長をしていた父が補填してくれ、漸く資本金50万円の目途が立った。

その間、小林はニューヨークに残って、モリムラ・ブラザースの財務や経理を担当していた。仕事が綿密で、勉強家の彼は大いに重宝がられた。傍ら、靴下の製造、販売、特殊技術の研究にも励みながら、創業の機会をうかがっていた。依田が会社を辞めると告げた時に森村組は大いに反対したが、小林まで独立したいと言い出したので、東京本社は頭をかかえこんだ。森村組は九州の小倉に計画している日米提携の新会社(魔法瓶製造)にポストを作り、支配人にするからと言って小林を引き留めようとした。しかし、二人の決意は固かった。

依田と小林は、森村組を退社し、1920年(大正9年)、愛知県御器所(ごきそ)村(むら)(現名古屋市昭和区)に600坪の土地を得て、新会社の工場を建設した。名古屋に工場立地した理由は、地価が安くて、比較的賃金も安いことだった。土地柄が当時雑貨生産の中心地だったアメリカのペンシルバニアに似ていることも利点だった。立地選択には森村市左衛門の意見も大いに参考になった。経営全般に関しては市左衛門が昵懇だった伊藤忠兵衛から助言を受けた。善積武太郎はメリヤス機械の設備導入の際に親身になって指導してくれた3。輸入した最新の機械でアメリカに劣らない靴下の製造を行い、国内のみならず海外にも輸出しようという壮大な夢がいよいよ実現できるというので、社名を「内外編物」と決めた。

無謀といえば無謀だが、時には若気の至りで成しうる冒険もある。何が何でも起業したいという強い意思、未来を信ずる不撓のエネルギーが二人にはあった。初志を貫徹して起業できたのは、綿密な計画を立てて十全な準備を行い、市左衛門や豊の奮闘にも似た、不屈の負けじ魂で事業を始めたことにあるのだろう。無論、よい先輩と識者の指導があったことも忘れてはならない。依田と小林は後年、その頃のことを振り返り、モリムラから受けた薫陶を次のように語っている。

ニューヨークにいた自分たちは「母国における偉人の、例えば福澤先生の独立自尊の精神の如き、あるいは幾多の先覚者の刺激によれるアンビシャスの血潮が体内に蔵されておりました。 森村翁、村井翁を初め、日米貿易の基礎を築きあげた先覚者から日々受けた教訓は、われわれの骨となり肉となりました。第一次欧州戦争前後における種々なる企業の勃興は、われわれ青年の事業熱に一層の拍車をかけ、油を注いだのであります。」「われわれは二人の従事していたモリムラ・ブラザースの雑貨貿易の一端にヒントを得て、大正9年、終戦と同時に母国に帰り、今後益々発展して行く日本の社会生活において、日用品であり、且つ又消耗品であり、最も将来性を有する必需品の靴下の製造に着手したのであります4

内外編物はこうしてスタートを切った。当時の日本の靴下製造業界は微々たる家内工業であり、その販売も旧式な問屋制度に基づいていたので、消費の趨勢を伺うべき途(みち)もなかった。実績も経験もない若者がすぐに成功するはずがない。あるのは情熱だけだった。豊のニューヨークでのスタートを思い起こさせる。未来を信じて全力投球するしかなかった。創業の翌年(大正10年4月)、東京の白木屋百貨店から靴下60ダースの初受注があり、いよいよ業界進出の機運が熟したと思った5。 しかし、そんな意気込みとは裏腹に商品の販売は伸びなかった。夢はたちまち悪夢に変わり、どのように乗り切ろうかと頭を悩ましているところに、思いがけない幸運がやってきた。1923年(大正12年)9月の関東大震災である。東京の下町に密集していた靴下の零細企業が地震で全滅してしまったのである。皮肉にも東京から離れたところに工場があったお蔭で被災を免れた内外編物に大きなチャンスが訪れ、東京の百貨店や洋品店から注文が来た。倉庫に残っていた冬物用の製品がどんどんはけて、生産が間に合わないほどの活況を呈したのである。

関東大震災は東京・神奈川一帯に甚大な被害をもたらし、その復興に時間がかかったが、同時に日常生活の近代化・洋風化が一気に進むきっかけにもなった。特に新種の職業、例えばバスガールやタイピスト、電話交換手というような職業が出現し、女性の職場進出が加速する時代になった。銀座や丸の内のオフィス街を闊歩する女性たちにアピールするファッション性の高い靴下を作るためには、欧米での流行を先取りする必要があった。小さな出張所では対応できないと判断し、本社の東京移転を敢行し、海外の情報を得やすくして、新工場を蒲田に建設、製造技術の向上と商品開発に取り組んだ。その結果、海外との取引が活発になり、社員を欧米に派遣したり、新型の機械や原料を輸入したりすることによって品質を著しく向上させることに成功した。特にゴム糸を靴下の上部に編み込んだ、ガーター不要の靴下を製品化したことや、いち早くナイロンのストッキングを商品化するなどしたことが、ナイガイの経営基盤を磐石にしたのである。

ナイガイが小資本ながらもアパレル産業界で不動の地位を築くことができたのは、市左衛門や豊のように「商売」の原則にいつでも忠実だったからだろう。時代を先取りしてお客のニーズに応える商品開発をすることと、品質にこだわってお客の信用を勝ち得ることは100年前も今も変わらない。

森村悦子(パリ日本文化会館図書館 前主席司書)

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