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「戦争とモリムラ・ブラザーズ」お茶の水女子大学院博士後期課程 今給黎 佳菜様(いまきいれ かな)

「資産凍結への対応」

200   水野智彦氏は1915年に森村組に入社し、1936年、MBへ転勤となった。アメリカに永住するつもりであったから、名古屋の家は売り払い、家族も同行した。着任して早々、1937年7月の盧溝橋事件、同年12月のパナイ号事件が起こると、アメリカにおける対日感情は悪化していき、新聞に日米国交断絶の論調が現れるようになった。ただし、この時点での実際の商売への影響は無く、商品は順調に売れ続けたという。
  1940年9月、日独伊三国同盟が締結されると、在米日本各社は従業員やその家族を帰国させ始めたが、MBの水野氏は、野村吉三郎大使の「貿易のために残留した人たちを置いて帰るようなことはしない」という言葉を信じ、最後までアメリカにとどまる決心をしたという。【写真1】は日米開戦の半年前にMBの墓地(NY市北部ウッドローン・セメタリー)で撮られたもので、MB社員およびその家族が写っている。
  この情勢下における最大の心配事は、米政府による日本資産凍結であった。そこで、アメリカの在庫品はなるべく販売して東京本社に送金し、名古屋の在庫品も早くアメリカに引き取って換金することに全力が注がれた。また、横浜正金銀行横浜支店にMBの為替資金を預けることで、万が一突然資産凍結となった場合でも米国に押さえられる現金がなるべく少なくなるようにしておいた。
  そして、1941年7月26日、ついに日本の在米資産は凍結され、MBから東京本社への送金の道は断たれた。また、7月29日のシアトル入港の平安丸を最後に輸入も途絶され、MBは孤立無援の状態となる。資産凍結中は、毎日米政府の役人(Bank Examiner, Federal Reserve Bank)2人がMBの事務所に来て、会計帳簿や伝票を一つ一つチェックし、夕方はそれらの書類や現金の残りを金庫に封印、翌朝MB社員の出勤と同時にやってきて、また同じ作業を繰り返した。
  ここにきて、水野氏は2年前に新設したばかりのMBロサンゼルス店を閉鎖し、日本人社員および家族を帰国させるという判断をした。水野氏本人の帰国も東京本社や日陶幹部から勧められたが、献身的なアメリカ人従業員を捨てる気になれず、自分は最後まで残ろうと決めた。このような態度は「危険を冒してまでサービスを続けてくれるのはMBだけだ」として、顧客からも喜ばれた。結局、水野智彦店長、前波陽之助事務員、加藤高二事務員の3人で経理などの事務処理を最後までおこなうことになった。1941年度の決算は11月末でいったん仮決算し、12月の収支を加算するだけにしておいた。また、アメリカ人従業員の退職金・年末賞与不払いを防ぐため、弁護士に相談して、Chase National Bankと供託預金契約を結び、開戦の場合にMBの手を離れた従業員にも資金が行くように取り計らった。これらの処理のために水野・前波・加藤の3氏が昼夜の別無く誠心誠意尽した結果、米人への退職金・年末賞与は完全に支払われたのである。このことに全従業員が深く感謝したことは言うまでもない。

「アメリカ人従業員との最後の別れ」

300   1941年10月以降、水野氏は米人従業員(50余名)の解雇に着手した。20年~30年の永年勤続者も多かった。例えば、Charles Kaiser氏(商品部長・顧問/勤続40年)、David Walker氏(税関部長/勤続24年)、C. A. Hitchcock氏(輸送部長/勤続26年)などがそうである。早くMBを離れたいと言う者は一人もおらず、むしろ献身的に働いた。
  1941年11月27日夕刻には、退社を目前にした米人従業員約50名が、水野・前波・加藤を招き、ホテルタフトの食堂を借り切って最後のパーティーを開いた。この中にはHitchcock氏、John M. Geary氏(税関部長補佐/勤続24年)、J. S. Lauterback氏(セールスマン)、Gillen氏(輸入磁器部・クレジット部/勤続10年)などもいた。前年退職したSchriber氏(セールスマン)も来てくれた。驚くべきことに、資産凍結令以来毎日MB内部資金を管理・審査していた米政府の役人2人までが来賓として出席した。パーティーでは、涙で言葉が出ないHitchcock氏に代わり、Geary氏が次のような挨拶をした。
  「われわれは今日まで長い間、同じMBの屋根の下にあって、苦楽を共にし、今後も長くこの暖かいファミリーの1員として交遊を続けて行きたいと願っていたが、不幸にして時に恵まれず、今回多くの人がMBを去らなければならない。今後また、いつ、いっしょに集まれるかわからないので、皆が別れる前にもう一度集まって、楽しかった日のなごりを惜しみたいと思う。この機会にわれわれのマネージャー水野氏に対して、一同を代表して衷心より感謝の意を表したいと思う。彼はこの難局を引き受けて、よく戦ってくれた。われわれも最近は心配と困難の日のみ送っているが、彼の心配や苦労はさらにいく倍か大きいものがあろう。われわれは彼の努力と、われわれに与えてくれた好意に対して感謝しなければならない。」
  そして、これを受けた謝辞の中で、水野氏は
  「私は不幸にして最も嵐のはげしい時にMBをあずかり、困難は多かったが、諸君のような忠実な友だちを得たことは何よりも幸いであった。今諸君と別れることは耐えがたい悲しみであるが戦争は決して長く続くとは思わない、必ずふたたび平和の日が戻って、商売ができるようになれば、誰かが来てこの商売を再開するに違い無い、その時は皆戻って来て、助けてもらいたい。」
  と述べた。会場全体が涙に包まれた。いかに森村組社員と米人従業員との絆が強いものであったかが窺われる。【写真2】はMB表札前で水野氏が撮った最後の写真である。



「開戦当日とその後」

  1941年12月8日(米国時間7日)、真珠湾攻撃。この日、水野氏はNY112丁目のSt. John the Divine (Cathedral Church) の最初の聖餐式に参列し、ドライブしてから帰宅すると、女中から開戦を伝えられた。ラジオではLa Guardiaニューヨーク市長が「日本人は一歩も戸外に出ないように」と言っていた。MB店舗の前には警官が派遣され、警察から「日本商品陳列が見えるのはよくないからすぐに片づけるように」と言われた。水野氏は、Hitchcock氏とGlascow氏(発送部/勤続18年)に頼んで、ショーウィンドウを片付けてもらった。同日午後11時、FBIの刑事が3人来て、水野氏はエリス島へ移送・監禁された。前波・加藤もそれぞれ8日、11日に送られた。
  このエリス島に、公認会計士のIrving Bossawick氏がほぼ毎週来てくれたので、退職金・年末賞与などの手続きを遂行できたという。12月23日からは日本人を対象とした査問会(ヒヤリング)が開始され、順にNYの裁判所に呼び出され審判を受けた。水野氏は1942年1月24日に囚人用の自動車で憲兵に護送されたが、弁護人席には以下の6名が座っており、水野氏を驚かせた。Rt. Rev. Henry St. George Tucker (Presiding Bishop)、Dr. John Wilson Wood夫妻、Mr. Edwin J. Naylorメソジスト教会長老夫妻、Hitchcock氏(従業員代表)。また、Rev. C. H. Gahagen、キューガーデンメソジスト教会牧師、MB従業員一同、グレート・ノーザン鉄道会社、タワー倉庫会社などから特別の嘆願書が裁判所に提出されていた。皆、水野氏がアメリカ政府にとって不利な行動をとらない人物であると証言・擁護するために動いたのであった。
  しかしながら、結局、水野氏は危険人物として2月23日、収容キャンプ(Upton, Long Island, New York)に送られ、約3か月をそこで過ごし、6月10日交換船グリップスホルム(Gripsholm)で帰国の途についた。

  戦前のMBは、森村豊の渡米から開戦までの65年間、現地で厚い信頼関係を築きながら、真の意味でアメリカ社会に根付いていた。水野氏は後年こう振り返った。「森村組は昔から、家族的で、その友情と相互理解の精神が一つの特色であるといわれているが、それが、戦争のような非常時には、特に強く現われる。」現在の森村商事にもこの雰囲気が息づいていると思う。

  参考・引用:水野智彦『開戦当時の思い出』非売品、1975年

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